じゃがいも日記

母に顔がジャガイモに似ていると言われましたので

在宅勤務でぐーたらしてもええんやで

私は在宅勤務でもなく、未だに春休みですが…!

 

「会社に頼らずに生きよう」「個人のスキルを高めよう」「副業を始めよう」etc

「英語を話そう」「筋トレをしよう」「丁寧な暮らしを」etcetc

気付いたらこういったメッセージが身の回りに溢れ、自己研鑽に追われているように感じる毎日。

基本的に、私も上記に挙げたような話は大好きな側の人間ですが、そういった価値観が蔓延ってきた背景にどういった時代の流れがあるのか、批判的にみる視点は大事だと思っています。

 

ミクロの視点でみると、上記の話って全部ビジネスですよね。

副業、英語、ジム、丁寧な暮らし(を演出するためのブランド)、、、「初期投資が必要」「若いうちは知識・経験にお金をかけろ」って言葉とハッピーセット(言葉と裏腹にtoxicな食べ物の代表例)のこれらって、ぜんぶ、私たちが能動的に動いているように見せかけて、その実、消費に駆り立ててますよね。

「自分が選び抜いたもの」「自分を成長させるもの」そんな幻想は、もしかしたらミルクチョコレートよりも甘美かもしれませんが、企業が、企業の存続のために広告をうち、消費者にメリットを信じ込ませ、消費に向かわせるという点では、同じ、あるいはもっとハイカロリーかもしれません。(ちなみに、私はチョコレートを愛しています)

 

目的と手段、あるいは、欲望(ニーズ)とそれを満たすための道具が転倒していて。

「道具を売るために、欲望(ニーズ)を作り出す」ことが延々と続いているように、見えるときもあります。

 

 

マクロの話をしましょう。

企業だけを悪者にしても仕方ない、というか。まあ、前回の、過炭酸ナトリウムの例では、私はあいつらを(矜持を失った)詐欺師だと思っていますが、それでも多くの供給側は自分たちが「人の生活を豊かにするもの」を作っていると信じているでしょう。

みんながみんな、そう思い込んでがむしゃらに働いて、どのように(一つ)世の中が変化してきたかというと、単純に、労働者がもう、国からも企業からも守られなくなっているんですよね。日本で言うと、派遣法の改悪(非正規雇用が一気に増えた)から、つい最近、経団連の偉い人が「終身雇用」は守れないって言いました。

この流れの中で、最近の副業ブーム。

 

すっごい雑にまとめると、

(特に80年代以降)福祉の理念が敗北し、グローバル大企業の一人勝ちを許してきた政治(と永遠に起きないトリクルダウンのハッピーセット)によって、雇用は流動化しました。「流動化」っていうと、なんか響きはいいけど、その実、簡単に使い捨てができるようになったってことです。

多くの労働者が、来年の保障がないままに不安を抱えて生きざるを得なくなっている。

 

そんななか、「失敗は個人の自己責任ですよー」「人生失敗しないために、個人の価値を高めましょー」なんて宣伝があちらこちらにあるわけです。

 

と言っても、私の周りの多くの人にとっては、いまいち共感できない話かもしれませんが。けど、これ「エリート」労働者にとっても同じじゃないかな、って思ってて。

確かに、転職を繰り返し年収が上がる層もいます。ただ、彼らが(私も)していることって、「空き時間に自分のスキルを磨こう」つって、(企業の仕事ではないかもしれないが)労働市場での価値を高めるという、結局は(私生活との境界線がなくなった)仕事の延長、じゃないですか。

「自分の価値を高めなければ」って強迫観念に一生囚われることと、お金をたくさん貰えることって等価になるのか、疑問に思います。

 

だって、企業としては、「絶対に」その労働者に払う賃金よりも、その労働者が作り出す商品・サービスの価格が上回っている必要がありますから。労働者がそれに「同意」したということになっているらしいですが。

「同意」とは、自分にとって他に選択肢がある状況で機能するものなので、私にとって、割り切れる話ではないです。

 

 

ミクロ・マクロの話を統合しましょう。

「会社に頼らずに生きよう」「個人のスキルを高めよう」「副業を始めよう」etc

「英語を話そう」「筋トレをしよう」「丁寧な暮らしを」etcetc

って価値観が根付きつつあります。

これらの価値観は、売るものをとっかえひっかえして生き延びなきゃいけない企業たちが新しく目を付けた商品・サービスとも言えるし、もう従来の労働環境が保持されなくなった時代のなかで、(ほぼすべての)労働者たちにとって、なんとか生き延びるため個人の戦略として魅力的に映るもの、と考えられます。

 

そしたら、「労働者としての価値が低い人は、低賃金で当たり前、解雇されて当たり前」って簡単に思い込んじゃいますよね。

この思い込みって、雇用が流動的になった時代にすごいマッチしてると思いませんか。

 

(「思い込み」を解除するために考えてみれば、私には、スキルも知識もないので、医者にはなれないし、マッキンゼーでも働けない。工事現場でも働けない。コンビニでも働けない。ドライバーもできない。けど、私の生活で重要性が高いワーカーは後者の人たちです。私は消費者として、後者の人たちに前者と同程度、私のお金が渡ってほしいですよ)

 

確かに、自分に価値があると信じて「充実」した日々を送っているととっても気持ちいいですよ。めちゃくちゃ分かります。

だけど、なぜ、ある行動をすると「充実」していると思うのか、なぜ、その行動に価値観が付与されているのか考える作業をスキップしたまま、盲目的に「人生の充実」を追い求めるのは、それはそれで空しい気がします。

 

マルクスの言葉ですが、私たちは、自分たちが選んだわけではない条件のもと、これからの社会を創造しなくてはいけない。

 

いっせのーせっで全てを改善することは不可能だし、私たちはお金がないと生きていけない。けれど、無意味に煽っている(と私には思える)世の中のメッセージに、翻弄される必要もない。

 

(翻弄されねーぞって思って、その束縛から解放されるわけでもありませんが)

 

なんていうか、結論としては、せっかくの在宅勤務ぐーたらになるの当たり前だし、それでなんも問題ないのではと思ったのでした。