「ドライブ・マイ・カー」考察:女の才能は子宮にねえし、救済を与えるのも女じゃねえ
話題の「ドライブ・マイ・カー」を見てきました。
悪くないです。考察を書く気になるほどの作品です。まとまりはありませんが、思ったことをずらっと書いていきます。ネタバレしまくりです。
まず、映画全体と2つの劇中劇(とそれに関連する場面)は入れ子構造です。劇中劇を補助線として地の物語を読み解いていくのがセオリーかと。多分ね
1つ目の劇中劇は、主人公「家福」の亡き妻「音」の創作劇
2つ目の劇中劇は、チェーホフの『ワーニャ叔父さん』
ざっくり流れを説明すれば、1つ目の劇中劇によって、登場人物たちは翻弄され、2つ目の劇中劇によって「救済」される。ただし、ここが大事だけど、救済されるのは家福だけです。
だから、このお話は、壮大な「僕ちゃん救済物語」。成長でもない点でさらにタチが悪い。
前半だいぶ退屈だったのですが(映画におけるセックスシーンほど退屈な時間はねえ)特に、地のシーンでの台詞回しに耐えられませんでした。ただ、中盤に与えられる「本読み=初期段階で感情を込めて読むな」という方針が映画全体に適応されていると気づいてから聞く気になりました。
台詞回し自体が物語の進展を表しています。
「感情をのせない本読みの段階」→「身体を動かし役者の間でケミストリーが起こる段階」→「それをそのまま観客に見せる段階」
これを、完璧に遂行した役者さんたちに脱帽です。
すごいのがですね、劇中劇においては失敗/成功の演技をはっきり提示しつつ、地の物語では、徐々に感情をのせていくのですよ。
主要な役者さんたち皆よかったけど、誰よりも岡田将生(高槻役)が。
いやあ、昔はジャニーズに毛が生えた役者だと思ってたけど、すげえ演技うまくなったなあ(と言ったら、昔からうまかったとご指摘いただきました。大変失礼いたしました)。
そして、ハルキの「オシャレきもい」男を見事に体現した、西島秀俊(家福役)のキャスティングに乾杯(先に白状しますが、ハルキ作品の男の登場人物に影響を受けて、私のアイデンティティが形成された自覚はあります)。
編み目の大きなタートルネックのセーター、手入れの行き届いた愛車、絶対にニトリでは売っていないであろう家具、レコード、クラシック、ジャズ、少し懐古主義的なバー、タバコ、ヤレヤレ・ハルキ。
音の脚本の一番の被害者は、なんといっても高槻(岡田将生)でしょう。泥棒女子高生が、人を殺すシーンまで音の脚本を聞いてしまった高槻は実際に人を殺めます。
野次馬のスマホカメラによる撮影が殺めるきっかけとなったのも、音の脚本で防犯カメラに向かって「私が殺した」と女子高生が言うシーンが無意識に作用したからだと考えられます。
また、フェリー内で高槻のニュースが流れた際、未成年との不純異性交遊も明かされていましたが、女子高生の暗示かと。
高槻の影響の受けやすさは、家福(西島秀俊)が見抜いていたとおりです。言い回しはうろ覚えですが「テキストに向き合うんだ、君にはできる」という高槻評は、結果的に、高槻自身が破滅するほどテキストに飲まれる結果を生むのでした。
むしろ、演じることの危険性を知りつつ、高槻に演じさせた点で、最初から家福はこの結末を望んでいたのかもしれません。
かつて断念し、高槻に任せたものの高槻が演じられなくなったワーニャ役を、家福は最終的に演じ切ります。チェーホフの劇中劇において、自らの苦しみに向き合えない弱さを、唖者の女性に肯定してもらうことで、家福は完全に救済され物語は終わります。
しかも、その直前には、亡き娘を投影したみさき(ドライバー)にも、「音さんのことをそのまま受け入れたらどうですか」とアドバイスされ、「そうだ!僕、自分の悲しみに向き合ってなかった。音に会いたい、うえーん」と泣いてハグされ助けてもらってます。
このシーンが象徴するように、まじ「ぼくちゃん物語」なんですよね。
ここから、女たちについて考察していきます。
みさきの「音さんは、家福さんのことを愛していたし、同時に他の男も求めてたのではないでしょうか」って当たり前の解釈じゃね??そもそも、「音には、禍々しいものがあった」って家福の解釈の方がこじらせてるよね。
これ、多分、浮気癖のある男なら、そんなこと誰も思わないんすよ。でも、女が同じ事やると、突然、心の闇、魔性、災い、とかって―男がね、女を独占できない傷を回避するための―変な解釈が発動される。
映画全体でそうなんですよね。
いちいち、女の行動に理由をつけていくんすよ。「理解不能な女の行動に振り回される僕たち」→「理由がわかる」→「安心して傷つく or 救ってもらう」というループ。
男たちのバックグラウンドはほぼ紹介しないくせにね。
劇中劇に沿って行動していく男たち(地の物語で棒読みのせりふ回し→徐々に感情をのせていくのは、基本的に家福と高槻)
vs. はじめ謎に神格化されるも(魔女or女神扱いされるも)ちんけな理由を後付けされる女たち
あるいは、劇中劇に翻弄される「文化的な」男たちvs. 俗世に生きる女たち
という図式。女たちのストーリーが、男たちの物語を進行させるための手段でしかないんですよね。
初めは、謎多きドライバーのみさきも、徐々に心を開き、精神障害を抱え風俗業に従事するシングルマザーに虐待を受けたサバイバーであることを告白します。
家福も、みさきに亡き娘を投影します。
ただ、「僕が父親なら、君の母の死は君のせいではないと言うだろうが、違うから言わない。君は母を殺し、僕は妻を殺した」と父親ポジションではなく、同じ罪人ポジションに回ることで、みさきを救済の対象ではなく、共感の対象とするのですね。
そこまではいいよ。そこまではいいんだけど、上記したように、その後みさきは、家福にとっての核心を突き、苦しみから救ってあげてるのよ。
…え、都合よすぎね?まあ、家福、みさきに対して優しかったっちゃ優しかったけどさ。でも、罪人名指しよ?笑
あと、そもそも、虐待母が「精神障害を抱え風俗業に従事するシングルマザー」って設定どうなの。うーん、こういうのって、サンプル数1では、もちろん断言できないですよ。でも、世の中全体にそういった偏見があることを考慮すると、ちょっとねえ。
後述しますが、他の「母になること/であること」への意味付けも踏まえると、いただけないっすね。
そして、もう、音の存在が最大に「ぼくちゃん都合よい物語」。
音の浮気癖に対する家福のこじらせ解釈については、前述しました(浮気ダメ絶対で思考停止する人は、文学作品に触れる資格がないので、一生ディズニーでも見ててください)。
もう一ついうとするなら、「奥さん」呼びを嫌がった音に対し、「旦那」と呼ばれても訂正しない家福を見ても、二人の関係性の「解釈違い」を感じざるを得ないです。
映画として、こういったディテールはよいですが。
家福(や高槻・ほか関係をもった男たち)への「呪い(予言)」となる音の脚本—音の最大の才能—ですが、これを書くきっかけとなったのは娘の死でした。
この映画全体で母親だけが、子どもの死を背負っているんですよね。
逆の言い方をすると、圧倒的な父親の不在。
もう一組、父と母とで、子どもの死への反応が非対称的なのは、妻が唖者の韓国人夫妻です。
家福夫妻も、韓国人夫妻も夫が悲しんでいないとは言っていないですよ。ただ、子どもの死によって、それまでの才能を失うのは妻のみ。
妻たちはその後新たな才能(=キャリア)を得ますが、どちらも、きっかけは夫です。韓国人夫妻の場合、夫の勧めにより面接を受ける。家福夫妻の場合、(笑っちゃうんですけど)セックスすると(=家福の精液が注入されると)音の才能が開花します。
対比的に、支えのペニス(男の存在をペニスとして見ているのは、私ではなくこの映画であり、ハルキですからね!誤解なきよう)をもたないみさきの母は、みさきを虐待しています。
家福にとっての最大の恐怖は、音との別れではなく、自分なしで音が才能を発揮できることです。それを高槻も感じ取り、あれほど得意げに話すのです。
しかし、精液を注入し音の才能を開花させるも、音の才能を受け止められない(=空っぽな)高槻は破滅の道へ進みます。
「僕には、才能も頭もあった。成功できたはずだ」的なチェーホフの台詞はまたしても高槻(だけ)への呪いとなってしまいます。
死ぬほど嫉妬した高槻が、結局顔だけで才能も頭もなくて破滅するって、本当、家福、よかったね。
あとですね、音の脚本自体もきもいっすよね(笑)
なんだ、好きな同級生の男の家に忍び込んで、自慰して、全然別の男にレイプされかけてそいつ殺して、罪悪感に悩む女子高生って。
これを、女が考えた(精液を注入されたら湧き出てきた)ものとするの、冷静に考えなくても、かなりきもい。
唯一、男に理由を回収されない才能をもった女性の登場人物がいます。それが、台湾出身設定の女優。彼女の演技の才能がもっとも発揮されるシーンが、唖者の女優と公園で掛け合いをする場面です。
しかーし、結局、彼女は練習役であり、最終的にはこのシーンは家福によって演じられます。拍手を受けているのは家福。
ね、都合いいっしょ(笑)
「成長でもない点でさらにタチが悪い」と前述しましたが、典型的な成長物語が「父殺し」だとすれば、家福にとっての父は現れません。ですから、家福が父になることはありません。
ゆえに、家父長制的なパターナリズムは発動されませんが、家福が成長しない代わりに、勝手に女たちが家福を救ってあげちゃう。その点で、私はタチが悪いと感じましたが、どうでしょうか。
まあ、家福だけが幸せになったんじゃないよってので、最後、みさきが、韓国で犬と一緒に家福の車を走らせるシーンがエピローグ的に挿入されてました。
「みさきによくしてあげた人たちの思い出玉手箱」みたいなシーン、ちゃんちゃん。
でも、みさきもねえ、クィア的表象がなされていましたが、うーん、悪手だった気はするよねえ。風俗業に従事する母親に虐待されたことで、女性性へ嫌悪感を抱き、自らの女性性を極力抑圧した、みたいな安易な解釈が巷に流れていないか心配ですよ。
クィア的表象としては、服装・振る舞いに加えたぶん胸つぶしてたし、家福や高槻に対して性的関心を全く示さないのと対照的に、かなり初期の、まだ、家福に対して心を開いていない段階で「音の声が良い」と褒めていたのは女性へ性的欲望が向くインプリケーションでしょうね。声(や匂い)を褒めるって、かなりセクシュアルな行動ですし。
いや、あの、日常生活で他人の行動についてこんな解釈したら、ダメ、絶対ですよ。支障をきたしますよ!
でも、クィア・リーディングとしてはアリだと思ってます(クィア・リーディングをなんだと思ってるんだ、わたしは)。笑
長くなりました。締めに、それでもこの映画はエポックメイキングであることを述べて終わりたいと思います。
ハルキ原作だからジェンダー表象は相変わらずダメダメでしたが、ようやく、「邦画」もダイバーシティ&インクルージョンの時代に突入したのだと宣言できる作品だと思います。上述したようにツッコみどころは満載ですが、監督は、これから日本を代表する一人としてみなされるでしょう。少なくとも「世界スタンダード」を満たそうという気概を充分に感じられるので。
(それで言えば、新海誠は、内輪向けっすよね。面白い云々以前に、世界で当然のように求められるスタンダードを満たしていないので。そう言うのがあること自体はいいんじゃないでしょうか。私も、ジャニーズとか聞くときあるし。。。あの、今までに、ディズニー・新海誠・ジャニーズを好きな人たちを貶めた気がしなくもなくもないのですが、本当にすみません。心の底から申し訳ないとは思っています。でも、「そんなことはない!」って文句言ってくるとするなら「本当、そういうとこだよ」とも思います)
一番の褒めポイントは、アジアへのコロニアル的視点がなかったところ。これ、本当に日本の娯楽作品で画期的。
具体的には、「外国語の台詞退屈しちゃう」って、日本のおじさん・おばさん役者たちが話している後ろで、台湾出身設定の女優が、韓国人の唖者の女優と親交を深めていたところ。その場面は、その後、映画のなかでも中核となるシーンへ続いていたので、なおさら。
見た目が良いだけじゃなく、多言語を話し、積極的に互いに交流しようとするアジアの若者vs.それについていけない日本のおじさん・おばさんたちという図。
「日本すごい」という(自分達だけが思っている)一番ダサい自己認識から抜け出せたのではないでしょうか。
逆にね、もうそれを認めざるを得ない位置までアジア諸国がいっちゃってるってことですよね。映画の中で女性たちの表象がダメダメすぎたことを考えると、やっぱ、日本の女性たち、「すごいよね」って認められるくらい、もっと頑張るしかないのでは!笑
…フェミニストとしてあるまじき発言をしたところで、もういっちょ。セックスに過剰な意味付けをする人は面倒なだけじゃなくて、ちょっとおかしいっすよ!セックスはただのセックスだろ。以上。