じゃがいも日記

母に顔がジャガイモに似ていると言われましたので

どんな人になりたいか考える。

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久々に心を揺さぶられる文章を読んだ。芸術並みに文章が上手いとか、めちゃくちゃ難解なことを書いてるとか、そういうのはすごいなって思うけど、涙が出そうになる類のものではない。映画も音楽もそうだ。「ハイレベル」なだけでは物足りない。それよりもどんなメッセージが込められているかのほうに注目してしまう。たぶん、私は純粋な「芸術」や「学問」には疎いタイプの人間なのだろう。

 

その人が、どんな葛藤を抱いて、どんなことを諦めて、どんなことを受け入れて、どんな決断を下したのか、夢物語からは程遠い現実をギリギリのところで生きている人たちの言葉に、私はただただ飲み込まれる。

 

 

かつてはヌードだったりセクシュアルなものに関するアートを無駄に崇拝していたときがあった。ただ、最近は、むしろ安易だと感じる。「『脱げばいい』『タブーに切り込むことがかっこいい』と思ってるだろ」と考えてしまう。穿った見方だろうか?

 

そもそも、「タブーに切り込んでいるつもりが、結局そのタブーと同じ視点」の作品はかなり多い。人権とアートの関係性の議論を一旦置いといたとしても、正直、それらの作品は、純粋にアートの観点からみても低レベルだと思う。

「今までの常識を覆す作品」v.s.「常識的な作品」なら、通常、前者のほうが評価されるのは疑念の余地がないだろう。

 

だから今はむしろ、「脱がずに勝負する」作品のほうに関心がある。

 

 

ここ最近、とても頭の良い同世代に会う機会が度々あった。ユーモラスで人間的な温かみを備えた彼彼女らは賢かった。

社会の役に立ちたいとか、将来の夢を語る彼彼女らは真っすぐで、直視できないほど眩しかった。そして私は、その若い才能たちに抱く憧れや感嘆の裏に、やっかみがあるのを認めざるを得なかった。

「『社会を良くしたい』と夢見ているこの子たちは、どこまで、『社会』を肌感覚で理解しているのだろう」と思ってしまった。「世の中はそんなに甘くないよ」と呟きたくなった自分を恥じている。それは、まさにかつての自分が軽蔑していた「大人」の姿と重なった。

特に最近、自分自身と自分がいた社会の可能性に見切りをつけたことによる、挫折感や後ろめたさを抱えているからだと思う。

ニューヨークに戻ってきたくて、夢を捨てた話 - じゃがいも日記

 

ただ、別に絶望しているわけではない。むしろ、将来に関してはワクワクの気持ちが99パーセントだし、今の生活も、とっても楽しい(からこそ、他の人への申し訳なさなのだが。ただ、別に今の私が何かを我慢したところで世界が良くなるわけでないので、他者へ被害を与えない限り、やりたいことをすればよいとも思っている。)

それに、自分が将来やりたいことも、下の世代へのロールモデルの提示という点で、それなりに社会的意義はあると信じている。

 

上には上がいるのは当たり前だ。そこで大事なのは、羨望をモチベーションに変えることと、傲慢な気持ちをなくすことだろう。

友人らを笑顔で応援できる自分でありたい。

 

 

 

 

 

 

上記の文章だが、もしよかったら、ぜひ読んでほしい。

その知識、本当に正しいですか?|KaoRi.|note