じゃがいも日記

母に顔がジャガイモに似ていると言われましたので

永遠の愛と結婚の関係

愛があるか、ないか問われるとき、「あると信じるからある」と答えています。

永遠の愛があるか、ないか問われるとき「結婚するからある」と考えています。

 

まずは、「愛」について考えてみましょう。

愛や友情は、国家だったり資本主義のように、実体はないけれど、存在はする類のものだと仮定します。

 

確かに、人が強い感情を抱くとき、脳内で放出されるホルモン(=物質)はあるらしいですが、それはあくまで、「愛」に関する現象の一つに過ぎない。つまり、「愛があるから、あるホルモンが放出される」という言説はすんなり通るように思うけど、「そのホルモンが放出されているから愛がある」とは、どうもちょっと受け入れがたい。

そもそも、「強い感情」と書いたように、人が誰かに対して愛情を抱くときに放出されるホルモンは、我々が「愛情」とは区別する感情、感動だとか、美味しいものを食べたときの幸福感だとか、をもったときにも放出されます。

 

りんごのように、触ったり、しげしげと眺めることはできないけれど、私たちは、それが確固として存在する前提で生活している。そして、その「信念」に従って、社会の制度だったり色々なシステムを作り出す。それが、愛だったり、国家だったり、資本主義だったりするものの実体ではないでしょうか。

 

ただ、こうも考えられるかもしれない。「システムや制度があるからこそ、それ(愛云々)が存在する」と。ロマンティックラブイデオロギーや近代国家の成立の過程に関して構築主義的に論じる本はたくさんあるので、スキップしますが、世の中がここまでカップルにフォーカスしない社会だったら、そこまで、愛が重要視されることもないのではないか。

 

世の中のカップルのためのイベントが今の五分の一くらいになって、ドラマも映画も音楽も恋愛以外を主題としたものの割合が五十倍になって、結婚って制度もなくて、って社会だったら、たぶん、愛って、犬を飼うのと同じくらいの行為になる気がしませんか。

 

ただ、別に私は、だからといって、「愛はまやかしだ」という気もなくて。確かに、「自由恋愛」を人々が「謳歌」しだしたのはここ最近です。しかし、冒頭にも述べたように、現代社会に生きる我々にとっては、まぎれもなく「存在」するもの。

 

 

ここまでが愛に関するお話。次は、「永遠の愛」に関して考えていきます。

まずは永遠の愛を「今、愛している人を、自分が死ぬまで愛し続けるという、現時点での意思表明」または「現在の二人の関係を、未来にまで延長して考える態度」とします。

 

ここで大事なのは、「(過去、)現在、未来は連続している」という時間の捉え方です。時間の連続性、または、人々が「時間」という概念を取り込んでいく過程に関して、特に、哲学や文化人類学の分野で論じられてるので、割愛しますが、ここで言いたいのは、「その時間の捉え方自体が相対化可能である(色々なものの見方があるうちの一つに過ぎない)」ということです。

今回は、時間を直線的なものとして、現在、過去、未来は分けられつつもある程度、連続したものとして考えます。(一般的に浸透していると思われる考え方だから)

 

さて、次の段階として、「決定された未来はあるか」ということを考えましょう。これも「あると信じるから、ある」と言いたいところですが、そうもいきません。なぜかというと、それは、「未来」の言葉が含む不確実性と衝突するからです。我々は、「不確実な、先の時間」を未来と呼ぶのであって、「ある程度確実性の高い、先の時間」は現在に含めます。厳密にいえば、「現在」というのは(時間を直線として考えれば)「点」なので、実体はありませんが、日常では、ある程度、過去と未来に時間の幅をとって、現在としています。

例えば、「学校に行く」明日のことを「未来」と呼ぶのは違和感がありませんか。もっと分かりやすいのは、英語で、たとえ、先の時間に起こることであっても、 Earth rotates. と言い、Earth will rotate.とは言わないと、受験勉強で習いました。

 

ここまで、時間に関して考えてきました。「永遠の愛」に話を戻しましょう。

永遠の愛は、「現時点での愛を、未来にまで延長したもの」と述べましたが、先ほどの議論からもわかるように、それは、ありえません。「不可能」ではなく、ありえないものなのです。ちょっと難しく色々書きましたが、巷でよく言われるように「未来は分からないものだから」です。

しかし、宗教の多くが、未来での「救済」を約束するように、不確実な未来に見いだされる(と思われる)確実性に人々は惹かれるようです。宗教心を否定できないように、「永遠の愛」を信じる心も否定されるものではないと、私は思っています。そして、「永遠の愛」を現実に可能にするものがあるとしたら、それが、結婚だと考えます。

 

愛に関する話のなかで、「制度やシステムがあるからこそ、ある概念は、実在する」と述べましたが、結婚制度が、一組のカップルの関係を、基本的に、どっちかが死ぬまで規定するために、「永遠の愛」は存在しうるのではないでしょうか。

(ここでは、ひとまず、「人が死ぬまで」を「永遠」とします。これは、「世界」といったときに、普通、人は銀河系の外のことは考えず、だいたい、地球上を想定するのと同じ感覚です)

つまり、先ほど「ありえない」と書いたものを、法律という、途方もなく大きいと思われる権力によって無理やり「後押し」(/ゴリ押し)してもらっているのが「永遠の愛」なのです。本来は、「先の時間に関する現時点でのほぼ絶対に破れない約束」=「確実なもの」なので、結婚は、「現在」を先の時間に、ものすごく引き伸ばしたものにすぎないのですが、いかんせん、死ぬまで先の時間を「現在」として捉えることに人々は慣れていないから、結婚という超個人的な法律、国家、社会の「力」によって、「永遠の愛」が存在すると信じてしまう。そして、「永遠の愛」以外に、「不確実な未来」に見いだされる「確実」なものは、なかなか存在しないので、人々はそれに熱狂する。

 

永遠の愛は、結婚による、未来に対しての現在の侵犯なのです。

 

 

最後に、ここまでの、端々に溢れる言葉のニュアンスから、私の「愛」だとかなんとかに対するスタンスが滲みでていますが(笑)途中でさらっと書いたように、思想、信条、宗教の自由が(一応)保証されているのが現代社会です。

なので、どんな反論もあり得ると思いますが、注意してほしいのは、私はここで「愛情は、本当にずっと続くのか」という問いは問題にしていないってことです。そんなん、続く人もいれば、続かない人もいる、としか言えませんから。笑

もうね、大学生、それに関してばっか喋りすぎなんだよ。どうでもいいわ。それよりも、もっと面白いゴシップを提供してちょうだい。笑

 

では、セックスワークに関する議論と一緒に、ここ最近ずっと考えていたことのまとめは、以上です。