じゃがいも日記

母に顔がジャガイモに似ていると言われましたので

エドシーランを自然と口ずさめるようになったこと、一人で立てるようになったこと

私の家に置いてあった元カノの荷物を返し終え、帰京する夜行バスの車窓から眺めた、首都高の入り口のビル群を忘れない。痛いほど強烈に、自分の青春の終わりを感じるとともに、「東京は愛せど何もない」という歌詞の意味をぼんやりと考えていた。

 

一年がたち、遊びは派手でも心根は優しい友人らとマンハッタンから帰る車中、Ed SheeranのThinking Out Loudが流れ、"Maybe we found love right where we are."と、歌詞が自然と口からこぼれ落ちた。3年前、ずっと聞いていたこの曲は私の一部だ。

そして気づいた。このメロディを聞いても、過去の記憶がフラッシュバックしない。

 

先日、ブロードウェイミュージカルのBeautifulをみた。劇中、jerkである夫のもとを主人公が去るシーンで、傷ついた心を抱えつつも前を向く彼女の姿は清々しく、客席から拍手が起こった。数年の時を経て、自らの力で成功をつかんだ彼女の前に現れた元夫の謝罪は真摯であったが、どうみても"It's too late"であった。

 

ある人から「気持ちの全てを彼女さんに預けてたんだね」と言われたことを覚えている。初めて、自分の弱さをさらけ出せた人であった。そして、それは依存になり、甘えになっていた。

 

この言葉を私が言うのもどうかと思うが、お互い、別れてよかったと思う。彼女にとってというのはいわずもがな、私も、自分の気持ちを自分でケアするすべを身に付けられた。

 

昨年末、友人をなくしたとき、彼女のことが浮かんだ。そして「生きててくれればそれで充分」と思った。関係性は変われど、彼女は今でも私にとって大切な人のうちの一人だ。私たちの時間が、なにかしらの形で彼女にとっても意味のあるものだったことを願う。

 

この記事を出すかかなり悩んだが、正直な気持ちや考えを書くことにした。なぜかはわからないけれど、そのほうが自分にとって良い気がする。

 

今は、喪失感ではなくて懐かしさとともに思い出を振り返れるし、誰かを必要とすることなく自分のために現在を生きることができる。

やっと言えるようになった。もう、私は大丈夫だ。

 

 

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