じゃがいも日記

母に顔がジャガイモに似ていると言われましたので

食欲を満たすように性欲を発散したい

ソムリエに選んでもらったワインとフルコースのディナーは至福のときだけど、真夜中にバカ食いするジャンクフードも結構好きだ。

好きで好きでたまらない相手とのセックスの後はずっとギュッとしていたい一方で、愛のないセックスの後は手洗いとうがいをすませて、自分のベッドで快眠につきたい。けれど、どっちの夜も、日々の生活に彩りを与えてくれる大切な時間である。

 

次に誰かと付き合うなら、オープンリレーションシップを結びたい。フリーセックスの考え方なんて今となっては古典かもしれないけれど、セックスと愛は必ずしも結びついてなくて良い。むしろ、セックスが原因で愛情が冷める方が私にはナンセンスに思える。性欲の発散なら一人ですれば、と言われるかもしれないが、ご飯は基本的に誰かと一緒に食べたいタイプだ。そういえば、インドネシアのどこかの部族にとって、食事は一人でするものらしい。

 

一時期、「用意して腹を満たして片付ける」という流れがめんどいと思っていた。最近は「キスして身体を触りながら服を脱いで舐めて入れる」というお決まりのパターンに飽きた気もしなくもないけれど、未だに私はご飯を美味しく食べ続けているし、セックスもきっとそういうものなのだろう。ただ、白米じゃなくて、パンやパスタの気分のときもある。

かつては自炊もしていたのだが、この頃はもっぱら外で食べることが多い。元ノンケだった彼女と付き合っていた当初はバリタチで満足していたが、今は自分のレパートリーの少なさに退屈を覚えるし、純粋に疲れるから、割と他人に頼りたい。

一食や二食は抜いても平気なように、多少ご無沙汰の時期が長くても大丈夫だ。ただ、私にとって、セックスは香り豊かな人生のスパイスである。

 

そんなことを考えていたら、お腹がすいた。ああ、なに食べよう。

 

 

 

 

 


 

※追加

これを書いたあとに、今、ツイッター上で食欲と性欲を同一視して猥褻表現規制に反対する投稿が炎上していることを知った。ここであえて書くのは野暮以外のものでもないし、できれば読んでほしくもないが、念のため。繰り返すが、できれば、読んでほしくない。

 

私は、食事もセックスも、お互いが充実した時を過ごすための、高度コミュニケーションだと思っている。関係各位の合意なんて当たり前の当たり前すぎて、(私にとっては)もはや前提以前のなにかである。

セックスには(権力による国民支配のために性規範が利用された名残だったり、キリスト教的価値観に基づいたりして)未だに、タブーが多い。そして、そのタブーであるところの性的逸脱には、同性愛も含まれていた。同性愛を問うとき「貞操」や「節操」を含む性的逸脱も考えるのは、むしろ自然だ。

また「プレイボーイ」と「ビッチ」を考えたとき、後者の方が明らかに負のスティグマを多く背負っている。セックスを巡るジェンダー格差も問いたい。

 

貞操観念だとか節操なんてものを守るのはたいへん結構だが、少なくとも、それを支えている価値観を相対化しない限り、他人の行動を縛ったり、批判することはできないと思う。

 

話がまとまらず申し訳ないが、セックスにまつわる固定観念に囚われずに、それを好きな人もいれば苦手な人もいる、食事だとかスポーツくらいの感覚で捉えても良いのではないか、という考えに基づいた投稿である。(セックスと食事を一緒に考えることが陳腐な発想であることは許してほしい)