じゃがいも日記

母に顔がジャガイモに似ていると言われましたので

セクハラは成立しうるのか。SWについて考えて飛田に行ってふぐを食べてきました

女性学研究会で、当事者によるセックスワーカー支援団体SWASH代表の要友紀子さんがお話してたので、大阪まで来ました。三連休でホテル取れなかったけど、前日はレポートでろくに眠れなかったけど、深夜バスで当日も眠れずのコンディションだったけど、来た甲斐がありました。

備忘録を、さささっと。

 

1.当事者論

・当事者は多様。非当事者が自分たちについて語ることに寛容な人も、そうでない人もいる。ただ、「こんな仕事辞めたい」って意見は割と共通。

・「売春は色々な事情があるだろうし責めないけど、買春する男は最低」ってのを当事者の前で言う無神経さ。

・「貧困」「米軍基地問題」で「可哀想な女性」の典型として、セックスワーカーを利用すること。例えば、ワーカーのほとんどはそんな問題には関心がなく、自分の環境を良くすること、例えば、具体的にもっと楽に安全にお金が稼げる方法、ってのを求めている。それは無視して、自分の主張に沿う形でしか、語りを聞かない。貧困をなくしたいのか、風俗をなくしたいのか、ごちゃまぜで話してる。フェミニズムも同罪。

・結局は「貧困ポルノ」だと思う。アッパークラスの所得の再分配には触れず、いつも「福祉・支援vs風俗に堕ちてしまう女性」ってオチだから。「ああならないように、頑張ろう」としか思ってないのでは。晒す/晒される関係に無頓着。

・他の労働者と違って、sex workerはそのバックグラウンドだけに注目される。一方でSex workがなぜ、他の労働と区別されるのかという背景には触れられない。

 

2.性的なことと引き換えに生きること

・鈴木涼美「テレ朝記者『セクハラ告発』に舌打ちしたオンナ記者もきっといる」コラム紹介。
「私」ではなく「私たち」という主語で「オンナを使って働くことなどまっぴらごめんだ」と主張するのは違うのでは。例えば、「オンナ」を使って仕事の成果を得る女性が、それと引き換えにセクハラを黙っているという選択をするのもありでは。資本主義のもとで、学力を使ってのし上がる/稼ぐことと、性的魅力を使うことはなにが違うのか。むしろ、性的魅力に関する基準のほうが多様では。(後の質疑応答で、女性の多様性に沿わず曖昧模糊な「オンナ」って言葉は使わないほうがいいと訂正されました)また、性的魅力を使って仕事することを望む男性もいるはず。

・Me Too Movementに対する反論(?)「女性を口説く権利」の紹介。
「獲物」としてうまく立ち回りたい女性もいる。すべての女性の客体化に反対するのは行き過ぎ。性的に見られたくない人がもっとそれを表明する形で、バランスをとっていくべき。

(菊地夏野コメント:運動がまた別の性規範をもつことはよくある。気を付けるしかない)

・AV出演強制事件について。一斉に取り締まれる、公共の福祉に関する道徳的アプローチとして、わいせつ罪や有害~罪が議論されていたが、「私は傷ついた」という一つ一つの声を聞く人権型アプローチが理想。また、「モデルになれる/CDデビューできる」という条件のもとAVに出演した人で、本人が望むなら、モデルにする/CDデビューさせるという原状回復の方法もあるのでは。

 

3.利用しない形での当事者支援とは

・被害を分類することは、被害の軽重を評価することに繋がりかねない。

・女優のリンダ・ラブレースは、一時期、ドウォーキンやマッキノンといったフェミニストらとポルノ規制で共闘したが、後に決別し、ポルノとフェミニズムに二度、「利用」されたと感じている。

・アラーキーを告発したKaoRiの望みは、彼の作品を見る人に、その作品の背景を知ってもらうこと。自分の作品でもあると伝えること。Me Too Movementは意識しつつも、その文脈で語られることはまったく望んでいない。

・当事者の話を傾聴すること。『リフレクティング:会話についての会話という方法』

 

 

思ったこと

・セクハラを「被害者が許している」という理由だけで、看過できるのか。確かに、学力差別は存在するが、建前上はないことになってる。たとえば、「学力で学生を選びます」と企業が堂々といえば、批判されるだろう。その建前すら超えてしまうセクハラと、見かけだけでも「平等な」学力ベースの能力主義を同じようには見れないと思う。

・被害者が望まない形で、セクハラした人間を告発し、結果的に被害者を傷つけてしまってはいけないが、「女性側が望めば、セクハラは成立し得る」と言ってしまうのには抵抗感。

・また、女性のほうが性的にみられやすいのは事実だし、男性の性的魅力と引き換えに、報酬を与えられる女性は圧倒的に少ない。その権力構造を無視するのは、無理がある。

・言葉は誰のものか。語った当事者だけのものではないのでは。「自分のもとを離れる」覚悟も必要では。自らの意図と違うと批判しても良いが、異なる文脈で語られることは十分にあり得る。

・途中、納得しかねる意見もあったが、当事者を無視して自らのイデオロギーを語ることに対してあまりにも無頓着だったと反省。あと、やっぱ、「現場の声」は面白かった。

 

 

そのあと、「11・25女性に対する暴力撤廃国際デー」に関するイベントで、アジアの性奴隷サバイバーの姿と声を届ける写真家のトークショーがあることを、たまたま知ったので参加してきました。非当事者が目を背けるのは無責任でしかないとわかっていながら、正直に言って、言葉にすることすら気が引けるしんどいテーマですが・・・。

 

赤ん坊と一緒に連れていかれ、その子の横で犯された話。ちなみに、その子は帰ってきた後に亡くなったそうです。子どもを産めない身体になってしまい、晩年、アルツハイマーを発症した後、赤ん坊の人形をずっと抱いていたハルモニ(おばあさん)の姿。などなど、日本が植民地支配していた中国東北部や朝鮮半島、東南アジアの女性たちが映し出されていました。

 

歴史的な検証は必要だとしても、強制連行じゃなくて自主参加だったとか、「売春婦」だったとか、口にする恥を知れよ(ってのはカリフォルニア市議の言葉ですが。)それに、もしも、たとえそうだったとしても、実際にそこで行われていたのは、そういうレベルじゃないだろうって。(性的合意に関してよく言われることですが、一度同意した内容であっても、後で拒否できるルールは大事ですよ。)本当、「金のためにこういう話をでっちあげてる」って、人としてよく言えるな。慰安婦の問題は、「国の威信」をかけた政治的な問題じゃなくて、女性の生や尊厳が貶められた人権問題だろうって。

 

写真家が「はじめ、ハルモニたちに会ったとき、男性である自分が加害者とすら思われ、話すのがためらわれた」と言っていましたが、それが、「まっとうな」人間の神経だろう。そのときに自分が責められてる感覚になる人、理解不能ですね(理解不能って言った瞬間、対話の道が閉ざされるので、普段はあんま言わないけど、まあ、本音としては)

 

 

二日目は、あいりん地区、飛田、鶴橋のフィールドワークと言いつつ、さっと散歩してきました。あまり、前情報がなかった彼女は割と衝撃を受けていましたが、「USJに行くより、ずっと良かった」って言うとこ、さすが。笑

三連休ってのと、日曜の大阪マラソン大会ってのとで、宿がまったくとれず、二夜連続でネカフェなど探してさまよったのですが、常にご機嫌でにこにこしてて、たぶん、人の形をした仏なんだと思います。なむなむ。以上、大阪旅行記完