じゃがいも日記

母に顔がジャガイモに似ていると言われましたので

大したことのない留学感想1(渡米1か月目)

 交換留学でニューヨークに来て一か月が過ぎた。間違いなく、人生で一番楽しい一か月を過ごしている。言葉に苦戦しながらも、英語で授業を受け、新しい人々に出会い、休日にはマンハッタンの美術館やジャズクラブに通う生活である。日々、刺激を受けるとともに、私がこちらで抱く一番の感情は、解放感だ。社会学の授業で、教授が約20人の学生に、本人の生まれや両親の生まれなどを含めたバックグラウンドを一人一人に聞いたことがある。その答えの多様さは圧巻だった。その教室で上がった国名だけで世界地図を描けるのではないかと思った。また、人類学の授業では各学生の話せる言語を聞かれ、そちらのクラスは50人ほどだが、ほぼすべての人が英語を含めた二言語以上を答えていた。一番多いのはスパニッシュだが、その他の言語もだいぶ上がっていた。現地の学生の会話でも、「生まれはここ?」「どこから来たの?」という質問はかなりの頻度でなされる。そして、たいてい「へぇそうなんだ」という軽い頷きから次の話題に移る。「英語が上手だね」「こっちで育っているから/英語を話せるから、ほぼアメリカ人だね」というコメントはたぶん、ありえない。「日本語が上手だね」「じゃあもうほぼ日本人みたいなもんだね」という「無垢な」(そして、きっと無知な)コメントに出会わないだけで、これほど自分のライフヒストリーを語りやすいのかと、私はしみじみと実感した。2017年9月1日付で新宿の外国人住民比率が12%を超える現在、「日本人か否か」という質問はなにを問うているのか。そもそも、日本人とはなにか。さらに、その質問は、多様な文化背景をもち、白か黒かだけでは収まらないアイデンティティを持つ人々の存在を無視しているのではないか。東京、ましてや日本全体とニューヨークを単純比較することに意味があるとは思わないが、多様性のリアリティの尊重は、間違いなくこの都市の強みである。また、フランスからの留学生に「フランス人は~~だね」という軽口を叩いたところ、「フランス人っていってもみんな違うから。私は、日本人はみんな違うと思っている。だから、~~なのは私だけって考えて」と言われ、軽率な自分の言葉を恥じた記憶も、上記に関したエピソードの一つとして付け加えたい。(もちろん、そんなことを考えたり、はっきりと物申したりするのはその友人だけかもしれないが!)

 次に、こちらで印象に残っているのは、将来について語るとき、現地の学生もヨーロッパからの学生も「やりたいこと」をベースに話す姿だ。留学生サポートの部署でアシスタントとして働いている修士課程の院生に、この後博士課程に進むのか聞いたことがある。そのつもりはないというので、就職するのかと再度尋ねたら、そのつもりもないという。では、どうするのか。特に決めてはいないが、旅をするらしい。それ以上は詳しく聞かなかったため、彼女の個人的な環境含め色々と考慮する余地は残っているものの、終身雇用ではなく、柔軟な企業の雇用形態とともに、流動的な生活を許容する社会の風潮を垣間見た瞬間だった。(その裏返しとして、リストラのプレッシャーや正規雇用を得られない若年層といった問題も抱えているが。)一方、日本、正確には名古屋、仙台、東京の友人らや、一緒に日本から来た留学生たち、韓国のいとこたち、中国からの留学生たちはどちらというと「やらなければいけないこと」をよく語る。就活に失敗しないように。特に女性だと、婚期を逃さないように。子どもを若いうちに産めるように。(余談だが、初産年齢の平均はとうに30歳を超えているし、若いうちに産んでおいたほうがよいという言説も、科学的信憑性に欠ける)これらの展望が、ある程度「自発的な」願望であることを否定はしないが、ここまで口々に同じことを言われると、現代社会の現実から乖離した「幻想」としての「スタンダードコース」からはみ出ないように、必死になっているようにしか思えない。思わず、「探し物は何ですか。見つけにくいものですか」と聞いてしまいたくなる。もちろん、友人らに責任を負わせるつもりはない。自分の生きる社会に適応し一生懸命生きている友人らを、私は尊敬している。それに、ヨーロッパからの留学生たちは、映画や音楽といったメディアやアートを専攻する人が多く、そもそも向こうでも「夢追い人」の範疇に入るのかもしれない。しかし、「自分の人生は自分のもの」「とりあえずチャレンジしてみる」「あきらめない」「楽しく生きる」といった当たり前のことを、当たり前に考え、実行に移すのが、私が属していた社会では難しいのだと、こちらに来て改めて気づいた。

 そして、最後は、政治や社会問題に対する態度の違いである。恋愛の話をしたあとに、突然「日本の政治リーダーは保守?リベラル?君はその人好き?」という質問や「日本はLGBT/セクシュアルマイノリティに寛容?その社会についてどう思う?」といった風に聞かれることは日常茶飯事だ。日本でも、そういった話題がトピックになることはあったが、こちらのほうがより身近なものとして感じられる。政治スタンスの違いにより、気まずい思いをしたり、疎遠になったりもあるらしいが、個人的には、そもそも政治スタンスが異なる人と、無理して一緒にいる必要はないと思うので特に問題はない気もする。政治状況や社会状況に関してアメリカやニューヨークが特段優れているわけではない。しかし、そのことに関して若者たちが、本気で憤慨している姿を見ると、まだまだ希望は残っているように思える。

 まだ一か月しか経っていないが、正直に言うと、ニューヨークも留学もすべての人におすすめできるわけではない。パリに過剰な憧れを抱いていたが、訪問してみると期待と違い、汚かったり、親切にしてもらえなかったりしてショックを受ける「パリシンドローム」のように「ニューヨークシンドローム」にかかっている留学生も若干数いる。そして、やはり自国の留学生同士で固まり、そこだけでコミュニティが完結しがちである。「友達の友達は友達」という風潮についていけず、なかなか交流の輪を広げられない人もいる。しかし、幸運なことに、今までのところ私は「楽しい」以外の感情を抱かずに一か月を過ごせた。その理由として、一度旅行でここを訪れているために、ある程度初めから想像がついていたことがあげられる。また、日本での経験や築かれた考えが、この場所にちょうど合ったからということも考えられる。ネイティブには及ばない語学力ながらも韓国の親戚たちと接してきたおかげで、言葉があまりわからない環境に適応できるようになったのかもしれない。学問的な知識を得ることで自らのアイデンティティをポジティブに築けてきたし、周囲の人々を含む恵まれた環境のおかげもあって、ある程度、マイノリティとしての肯定感を抱きながら日本で暮らしていた。しかし、こちらに来て、窮屈だったと気づいた。この土地は、自分に心地よい。ただ、楽しければ楽しいほど、もっと話せたら、と思う毎日である。滞在は来年の6月までである。それまでに精いっぱい学び、吸収できることは吸収し尽くしたい。そして、いつかはこの経験が実を結び、自分の育った社会に恩返しできたら、と私の「やりたいこと」を書き残してひとまずは筆をおこう。

 

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そういえば、試験的に承認制でコメ欄つけてみました。