バイセクシュアルが嫌い
フェミニストを自認し「バリキャリ」代表格であったトイアンナさんでも、ジェンダーロールの束縛から自らを解放するのは難しかったようだ。
「女性が強くあっていい。守られてくれる男性を選べばいいのだから。きっとこれから3回、4回と結婚することになったって、『結婚はいいよ』って言うんだと思います」
— トイアンナ@新刊発売 (@10anj10) 2018年2月28日
マイナビウーマンさんに、離婚経験をインタビューしていただきました。https://t.co/9CaCVAOfXz
「男に守られたいんじゃない。男を守りたい女だ」って認めるのは、世間的にはかなりしんどい。守られる女でいる方が何倍も楽だ。けど、認めたらスッキリしてしまった。これがわが離婚の総括です。
— トイアンナ@新刊発売 (@10anj10) 2018年2月28日
にしても私の周囲にいる女性はそろいもそろって一家の大黒柱をやっておる。類友とはこういうことか……と痛感している。
— トイアンナ@新刊発売 (@10anj10) 2018年2月28日
ちなみに彼女は女性と付き合ったことはないものの、バイセクシュアルであることをオープンにしている。婚活再始動宣言を出されたが、個人的には、次は女性と付き合うのではないと思っている。
過去にはこんなブログを書いている。
しかし、だからこそ私はノンケの女性を愛しても仲良くしたり、ましてや告白して付き合ったりということを諦めてきた。たとえ相手がビアンで、私に興味を持ってくれてもそれは「ビアンの人が持っている数少ないパイを奪う」ように思われた。今書いていても傲慢な話だと思いつつ。
例えば今私が恋している人は男性だ。相手に魅力を感じていることは間違いないが、「同性を選ばないようにする力」が皆無だったと言える自信はない。私はレズビアンのパートナーを持つことでビアンの世界から女性を奪ってはいけないし、「バイセクシュアルだから男性を選ぶことが一番世間と摩擦がない」と思った。その結果バイセクシュアルが最も嫌われるところの「いいとこどり」に落ち着こうとしている。
初めてこれを読んだとき「『相手のことを思って』とか、いかにも体裁の良いことをグダグダ書いてるけど、女と付き合うのが世間体的に怖いってだけじゃないの」と思った。本人もきちんと言及してはいるが、「バイセクシュアル→ビアン→レズ」と自認が変遷、というか開き直ってきた側の人間としては、「言い訳してるけど、結局は安全地帯の人間なのね~」と見てしまった。
男とも恋愛できるバイセクシュアルが憎いわけではなく、フェミニストを名乗れるほど強く、聡明で、社会的に実力も兼ね備えたトイアンナさんが、社会規範に迎合し、結果的に結婚→出産のライフコースを選んだのが残念だった。要は、勝手に同志だと思っていた人に裏切られたと感じ、勝手に失望したに過ぎない。
ところで余談だが、バイセクシュアルの友達が彼氏を作っても別になにも思わない。基本的に恋愛は自由なものだし、のんけの友達との恋バナに慣れているため、話にものれる。ただ、根本は、身もふたもない言い方だが、他人の99%の恋愛自体に興味がない。誰が誰と付き合おうが、勝手にしてくれって感じである。不倫や浮気に関しても、過度に怒っている人の気持ちがまるでわからない。モラルや思想の前に「なんで他人の恋愛でこんなに熱くなれるのだろう?」と思う。隣で友達がセックス(!)してても平気である。振動のせいで寝れなかったので移動したが。恋愛や性に関する社会規範にはアンテナを張っていたいし、華麗なるビッチライフを聞くのも割と好きだが、同性異性問わず「誰かが好き!」って話はほぼ「ふーん、がんばれ~」って感じだ。
長い余談であった。
結婚→出産のライフコースを選んだトイアンナさんであるが、挫折した。日常生活の中で些細なすれ違いには気づいていたであろうものの、その離婚は全く予想外だったようだ。離婚の原因を分析し、さらにそれを公開する姿には痛々しさも感じるものの、冒頭のツイートの総括を得た最近の彼女は、(実際の心情はわからないが)憑き物がとれたようである。「女が男を守ってもよい」から「女が女と付き合ってもよい」まで達するのは案外簡単なんじゃないか、と思う。そして、すごくすごくお節介なことをいうと、そこまで開き直った先に、(どんなパートナーがいるか、はたまた独身の身を楽しむのかはわからないが)様々な束縛から解放された彼女の幸せがあるのではないか、という気がしないでもない。
というのは、私自身、イデオロギーやら理想やらと、世間と、現実の自分の欲望の三者と最近やっと折り合いをつけられるようになったように思うからだ。このことに関しては別エントリーで書くが、「かつてあれだけ嫌ってたような大人になってしまったんだ」という後ろめたさを感じつつ、色々と開き直った今は、なんだか気持ちが楽になった。
実は、私も正確にはバイセクシュアルである。4割くらい今までそう自認してきた惰性と、3割くらいパワーワード感が好きなのと、2割くらいまじでレズビアンかもしれないのと、1割くらいその可能性に則ったクィア的な名乗りの意味合いとで、「レズ」と説明しているが、正確にはバイセクシュアルだと思っている。ただ、かつて、トイアンナさんに上記のような反発を覚えた身として、そのことを認めるのに抵抗があった。そして、多くの友人にもショックを与えた。なんだか可笑しいのだが「バイセクシュアル」が第二のカミングアウトになった。まあ、気持ちはわかる。私もくそれずでいたかった。笑
ただ、今となってはぶっちゃけ、レズとかバイとかどうでもいい。たまに、というか、一人の友人にはトランス男として認識されているのだが、そう思われて、そう扱われても別によい、むしろ、面白がっている。笑
他人のアイデンティティはもちろん尊重するが、自分のアイデンティティに関しては割と適当である。こだわりだすとキリがないし、無駄に傷つくことも多いし、自己保身やら社会適応の結果として、こうなったのかもしれない。今となってはあれこれ考えることがめんどくさい。
社会的抑圧を受けている側を責めるのは、お門違い甚だしい。私は、もう一度生まれ変わるとしても自分になりたいほどのナルシストなのだが、バイセクシュアルというトピックだけで、こんだけ長々と書けることが面白くもあり、たまに疎ましくもある。
ただ、自分の気持ちにまで一貫性やら論理の整合性なんて求めなくてよいと認められるようになったこの頃は、セクシュアリティの束縛から頭でっかちな自分を解放できたとみなしてもよい気がするのだ。