じゃがいも日記

韓国生まれ日本語ネイティブニューヨークなうの貞操観念低めレズ

マジョリティの不安に向き合おうじゃないか

 近代化の特徴の一つとして、個人化が挙げられます。基本的に個人は属する集団を選択することができ、人生の選択も個人の自由とされます。もちろんこれは、良い面もありますが、それだけとは限りません。

 心理学の知見からは、選択が増えれば増えるほど人はストレスを感じるという「選択のパラドックス」が指摘され、社会学では、フロムが「自由からの逃走」という概念を用いドイツ市民がナチズムに傾倒していった社会的状況を描き出しました。また、20世紀初頭の社会学者であるデュルケムは、社会的規範が過小になると欲望の抑制が効かなくなる「永遠の渇き」状態に陥り、最終的にはアノミー的自殺に至ると論じています。

 これらの伝統的な「自由」を巡る考察を踏まえ、個人的に共感する論は、自己責任論が叫ばれる現代日本社会において、人々は失敗を恐れるために、自由を健全に享受できていないのではないか、ということです。

 

 自由と平等を標榜する社会ならば、最も虐げられている人々への再分配を積極的に実施し、承認を回復させるのが最優先ですが、その方法に関して慎重になる必要があるでしょう。

 

 具体的には、「言葉狩り」とも捉えられかねないポリティカル・コレクトネスが原因で、自分と異質の他者とコミュニケーションをとるのが難しくなったと感じる人の気持ちを簡単に一蹴してよいものか、私は疑問です。悪意のない差別発言や失言から、例えばその人の人格を否定したり、次に生かす機会を与えないのは、ハーバーマスが唱えた公共圏の構築を疎外するでしょう。

 例えば 、以下の記事では、次のことが書かれています。「男性管理職の半数近くが、女性と2人きりでミーティングするのは気が引けると答えた。また男性は、女性の同僚と2人だけで出張に行ったり、夕食を取ったりすることに以前よりためらいを感じるとした。」

#MeToo対応に苦慮する米企業、男女格差は改善されず - WSJ

 

 「職場では仕事に関係のない話はする必要がない」という意見もたまに聞かれますが、これは経営側にとっても労働者側にとっても好ましいとは言えません。経営学の古典理論に、バーナードが提唱した「インフォーマル・グループの存在が作業効率に影響を与える」という説があります。これは、職場の人間関係が円満だと、効率性のみを重視して働くより生産量が増すということです。また、以下の調査では、仕事に満足している理由のトップ3として、職自体の魅力と、職場での人間関係が挙げられています。

仕事の満足度に影響する要因は?仕事に満足する理由は、仕事のおもしろさや人間関係。不満につながる理由は、給与。―『エン転職』ユーザーアンケート調査結果発表― | エン・ジャパン(en-japan)

 ワーク・ライフ・バランスが重視されているとはいえ、ほとんどの人にとって仕事は生活のなかで大きな割合を占めているでしょう。そこでワークとライフを完全に切り離すことは、むしろ感情疎外に繋がるのではないでしょうか。

 

 全ての人にとって円滑なコミュニケーションが築かれるために重要なのはむしろ、そのあとの異議申し立てが上手く機能することです。「正しい」世界を初めから構想しようとすると、全ての問題を全ての人が認識することができないために、様々なところで軋轢を生むので、ケアの倫理の中心概念である応答責任を広めていくことのほうが肝要かと思われます。つまり、発言の自由と開かれた対話に重きをおくことです。

 そうすることで、自己責任論を背景に失敗を恐れる人々が抱く不安にも向き合えるのではないでしょうか。

 

 また、どんな人生を送ってもよいという風に個人化が進む中で、人々が漠然と抱く「寄る辺なさ」に対応できるのは、アイデンティティ形成の機会や場の確保だと思います。アイデンティティの追及は必ずしも排他性に繋がるとは限らず、むしろ、健全にアイデンティティを形成出来た者(自己肯定感を育めた人)は、他者のそれも尊重できるのではないか、という予感もします。ロールズの原初状態が「負荷なき自我」として批判されたように、私たちは自らの歴史性/固有性と、日常生活で関わっている他者との関係なしに思考することはできません。

 その点で、「アイデンティティ構築」に対し批判的になりがちなクィア・セオリー(もちろん、全ての論者がとは限りませんが)をどこまで、現実社会を分析する社会学で活用できるのか、疑問に思うのでした。

 

 いつか、ここら辺に関して、一本の論文にしたい気もしますが、できるのだろうか…。とりあえず、明日のテスト頑張ります。千里の道も一歩より・・・。完

方法としてのアイデンティティ

 アイデンティティとは何か、問い続けてきた人生だった。

 

 日本社会で日本国籍をもたずに生きてきた私は、物心がついたときから、むしろ、マジョリティとして生きる感覚がわからなかった。

 「日本語が上手だから、ほとんど日本人みたいなもんだね」「なんで、国籍を変えないの」と問われるたびに、相手が納得する答えを与えることは上手になっても、自分の中の違和感は大きくなるばかりであった。

 

 日本と韓国の歴史、在日の歴史、家族の歴史、私の歴史を踏まえ、「今までそうやって生きてきて、アイデンティティを確立しているから(今更変える気にならない)」「もしも日本社会側が(つまりあなたが)私に変えたほうが楽と言うなら、その態度自体が、在日外国人を生きにくくさせている根本的な原因である(から私が変える必要はない)」と。

 長めの答えを伝える場合でも、たいていは、ここまでで、以下はそれに続く私の心内である。

 ナショナル・アイデンティティの確立は、近代国家の成立とともになされ、「本質」ではないが、私がこだわっているものもまた、一つのナショナル・アイデンティティである。マイノリティが自身のアイデンティティを保護しようとすることは、普段、アイデンティティを意識すらしない(ゆえに当然、それが原因で傷つけられることもない)マジョリティが自身のそれを保護しようとすることとは、まったく別の意味をもつが、結局は、マジョリティ/マイノリティを区分するのに、アイデンティティが基軸として作用している。これでは、ナショナル・アイデンティティが「本質」でないことと堂々巡りしてしまう。また、自身のナショナル・アイデンティティの保護に正当性を与えることで、他の在日コリアンが日本国籍を取得することを暗に批判してしまう。自分の「日本人ではない」という直感と、他者の選択への尊重を両立させるにはどうすればよいのか。(ちなみに、今までは、「まず第一に、直接の被害者がいない場合、誰かの生き方の選択に他者が口出しをすることは不可能だというのが、現代社会の基本ルール」と自分に対して暫定的な返答をしており、今でもそれはまったく正しいと思うが、それでもなお、靄が残っていたというのが正直な気持ちだ。)

 

 そして、似た問いは、異なるアイデンティティ・カテゴリーを通じて何度も私の前に立ち現れた。「女とはなにか」日本社会で日本人として生きる彼女と私は、同じなのか。そして私は、レイプサバイバーの声を、トランス女性の声を理解しているのか。一方で、「女」「男」というカテゴリー間に「明確な」差異があるようにもみえる。この現象は何なのか。

 「レズビアンとはなにか」バイセクシュアル女性となにが違うのか。「自分も女を好きになるかもしれない/なったことがある」と伝えてきた「シスヘテロ」女性は。なぜ、彼女たちはそれを名乗る/名乗らないのか。

 

 

 1971年、デニス・アルトマンは「ゲイ(同性愛者)」とは確固としたアイデンティティではないと述べ(Altman 1971=2010)、ジュディス・バトラーは「セックスは、つねにすでにジェンダー」であるという言葉で「生物学的/本質的」性別であったセックスを脱構築した(Butler 1990=1999)。

 そして私は、「ジェンダー、セクシュアリティ、人種、(民族、障がい、)階級といった差異を認識しつつ、非規範的な性のあり方を引き受けるすべての人が連帯して、性別二元論と異性愛中心主義に異議申し立てをする」クィア(河口 2003)という概念に出会った。

 

 余談だが、アルトマンもバトラーも哲学、文学、社会学などはてしない学問知の蓄積の末に、もしかしたら、石ころほどの自論を載せたに過ぎないのかもしれないが、されど、石ころである(もしもこれらの学者の説が石ころなら、私の存在は、原子レベルだ。頑張って砂粒くらいにはなりたい。)

 

 確かに、衝撃だった。納得できる点も多かった。ただ、それでもやはり、靄は残った。「まだ捨てきれない自分のアイデンティティと、それに付随する気持ちは何なのか」

 日本に住む日本人よりは、二世以降の中国人に、シスヘテロの男よりは、ゲイ/トランスになんとなく親近感を抱くが、それよりも在日コリアンに、レズビアンまたは女性のほうが好きなバイセクシュアル女性に抱く親近感はなんなのか。自分は、ただの分離主義者であり、今まで自らがされてきたように、誰かを排除しているだけなのだろうか。

 

 

 そんな気持ちを抱きながら読んだ堀江有里の『レズビアン・アイデンティティーズ』には、率直に言って、励まされた。

 クィアの概念によって社会規範をずらす前に、レズビアンという地点に留まることで社会を捉え返し、そのひずみや裂け目を詳述する意味はある(堀江 2015)と認識させられた。ただ、そこで述べられていた「他者との相互作用の中にあるプロセス/場としてのアイデンティティ」という概念が、感覚レベルではどうしても腑に落ちなかった。

 

 

 こうやって変遷をたどってきた「アイデンティティとは何か」という問いに対する答えは、まさに、バトラーの『ジェンダー・トラブル』のなかにあった。アイデンティティとは目標ではなく、方法なのである(Butler 1990=1999)。

 「~~とは何か/what?」でなく、「~~であるとは、どういうことか/how?」と問うことで、定義/線引きにより誰かを排除することなく、しかし同時に、自分自身を表す言葉を受け入れることで生まれる自己肯定感を否定しないことが可能になる。

 そしてその先に、自分自身によって自身を名指すことで、他者によって勝手に貼られるラベルに抵抗する可能性と、(アイデンティティを共有する集団内で)個々の差異を際立たせつつ、その差異を架橋する道(堀江 2015)が見えてくる。

 また、アイデンティティを手段と捉えることで、特に量的な社会調査をクィア・スタディーズの理論面からも意味づけられる。クィア・セオリーに多大な関心を抱きつつ、メソッドとしては量的調査を採択したい社会学徒としてのジレンマも克服することができた。

 

 

 長くなってしまった。本論に粗削りな点が多いことも、諸文献の読み込みが浅いことも重々承知している。ただ、自分のなかで、一つの目処がたったことは確かで、今後の研究の方向性も定まったように思う。ある程度形になった段階でアウトプットすることも思考の深化のために必要なので、今回は拙文ながら記事にした。とりあえず、卒論では、性的マイノリティとシスジェンダーヘテロセクシュアルの人の、意識に関して比較分析をするつもりである。日々多くの気づきと指導と叱咤を与えてくれる周りの人々への感謝を忘れず、これからも精進したい。

セクハラは成立しうるのか。SWについて考えて飛田に行ってふぐを食べてきました

女性学研究会で、当事者によるセックスワーカー支援団体SWASH代表の要友紀子さんがお話してたので、大阪まで来ました。三連休でホテル取れなかったけど、前日はレポートでろくに眠れなかったけど、深夜バスで当日も眠れずのコンディションだったけど、来た甲斐がありました。

備忘録を、さささっと。

 

1.当事者論

・当事者は多様。非当事者が自分たちについて語ることに寛容な人も、そうでない人もいる。ただ、「こんな仕事辞めたい」って意見は割と共通。

・「売春は色々な事情があるだろうし責めないけど、買春する男は最低」ってのを当事者の前で言う無神経さ。

・「貧困」「米軍基地問題」で「可哀想な女性」の典型として、セックスワーカーを利用すること。例えば、ワーカーのほとんどはそんな問題には関心がなく、自分の環境を良くすること、例えば、具体的にもっと楽に安全にお金が稼げる方法、ってのを求めている。それは無視して、自分の主張に沿う形でしか、語りを聞かない。貧困をなくしたいのか、風俗をなくしたいのか、ごちゃまぜで話してる。フェミニズムも同罪。

・結局は「貧困ポルノ」だと思う。アッパークラスの所得の再分配には触れず、いつも「福祉・支援vs風俗に堕ちてしまう女性」ってオチだから。「ああならないように、頑張ろう」としか思ってないのでは。晒す/晒される関係に無頓着。

・他の労働者と違って、sex workerはそのバックグラウンドだけに注目される。一方でSex workがなぜ、他の労働と区別されるのかという背景には触れられない。

 

2.性的なことと引き換えに生きること

・鈴木涼美「テレ朝記者『セクハラ告発』に舌打ちしたオンナ記者もきっといる」コラム紹介。
「私」ではなく「私たち」という主語で「オンナを使って働くことなどまっぴらごめんだ」と主張するのは違うのでは。例えば、「オンナ」を使って仕事の成果を得る女性が、それと引き換えにセクハラを黙っているという選択をするのもありでは。資本主義のもとで、学力を使ってのし上がる/稼ぐことと、性的魅力を使うことはなにが違うのか。むしろ、性的魅力に関する基準のほうが多様では。(後の質疑応答で、女性の多様性に沿わず曖昧模糊な「オンナ」って言葉は使わないほうがいいと訂正されました)また、性的魅力を使って仕事することを望む男性もいるはず。

・Me Too Movementに対する反論(?)「女性を口説く権利」の紹介。
「獲物」としてうまく立ち回りたい女性もいる。すべての女性の客体化に反対するのは行き過ぎ。性的に見られたくない人がもっとそれを表明する形で、バランスをとっていくべき。

(菊地夏野コメント:運動がまた別の性規範をもつことはよくある。気を付けるしかない)

・AV出演強制事件について。一斉に取り締まれる、公共の福祉に関する道徳的アプローチとして、わいせつ罪や有害~罪が議論されていたが、「私は傷ついた」という一つ一つの声を聞く人権型アプローチが理想。また、「モデルになれる/CDデビューできる」という条件のもとAVに出演した人で、本人が望むなら、モデルにする/CDデビューさせるという原状回復の方法もあるのでは。

 

3.利用しない形での当事者支援とは

・被害を分類することは、被害の軽重を評価することに繋がりかねない。

・女優のリンダ・ラブレースは、一時期、ドウォーキンやマッキノンといったフェミニストらとポルノ規制で共闘したが、後に決別し、ポルノとフェミニズムに二度、「利用」されたと感じている。

・アラーキーを告発したKaoRiの望みは、彼の作品を見る人に、その作品の背景を知ってもらうこと。自分の作品でもあると伝えること。Me Too Movementは意識しつつも、その文脈で語られることはまったく望んでいない。

・当事者の話を傾聴すること。『リフレクティング:会話についての会話という方法』

 

 

思ったこと

・セクハラを「被害者が許している」という理由だけで、看過できるのか。確かに、学力差別は存在するが、建前上はないことになってる。たとえば、「学力で学生を選びます」と企業が堂々といえば、批判されるだろう。その建前すら超えてしまうセクハラと、見かけだけでも「平等な」学力ベースの能力主義を同じようには見れないと思う。

・被害者が望まない形で、セクハラした人間を告発し、結果的に被害者を傷つけてしまってはいけないが、「女性側が望めば、セクハラは成立し得る」と言ってしまうのには抵抗感。

・また、女性のほうが性的にみられやすいのは事実だし、男性の性的魅力と引き換えに、報酬を与えられる女性は圧倒的に少ない。その権力構造を無視するのは、無理がある。

・言葉は誰のものか。語った当事者だけのものではないのでは。「自分のもとを離れる」覚悟も必要では。自らの意図と違うと批判しても良いが、異なる文脈で語られることは十分にあり得る。

・途中、納得しかねる意見もあったが、当事者を無視して自らのイデオロギーを語ることに対してあまりにも無頓着だったと反省。あと、やっぱ、「現場の声」は面白かった。

 

 

そのあと、「11・25女性に対する暴力撤廃国際デー」に関するイベントで、アジアの性奴隷サバイバーの姿と声を届ける写真家のトークショーがあることを、たまたま知ったので参加してきました。非当事者が目を背けるのは無責任でしかないとわかっていながら、正直に言って、言葉にすることすら気が引けるしんどいテーマですが・・・。

 

赤ん坊と一緒に連れていかれ、その子の横で犯された話。ちなみに、その子は帰ってきた後に亡くなったそうです。子どもを産めない身体になってしまい、晩年、アルツハイマーを発症した後、赤ん坊の人形をずっと抱いていたハルモニ(おばあさん)の姿。などなど、日本が植民地支配していた中国東北部や朝鮮半島、東南アジアの女性たちが映し出されていました。

 

歴史的な検証は必要だとしても、強制連行じゃなくて自主参加だったとか、「売春婦」だったとか、口にする恥を知れよ(ってのはカリフォルニア市議の言葉ですが。)それに、もしも、たとえそうだったとしても、実際にそこで行われていたのは、そういうレベルじゃないだろうって。(性的合意に関してよく言われることですが、一度同意した内容であっても、後で拒否できるルールは大事ですよ。)本当、「金のためにこういう話をでっちあげてる」って、人としてよく言えるな。慰安婦の問題は、「国の威信」をかけた政治的な問題じゃなくて、女性の生や尊厳が貶められた人権問題だろうって。

 

写真家が「はじめ、ハルモニたちに会ったとき、男性である自分が加害者とすら思われ、話すのがためらわれた」と言っていましたが、それが、「まっとうな」人間の神経だろう。そのときに自分が責められてる感覚になる人、理解不能ですね(理解不能って言った瞬間、対話の道が閉ざされるので、普段はあんま言わないけど、まあ、本音としては)

 

 

二日目は、あいりん地区、飛田、鶴橋のフィールドワークと言いつつ、さっと散歩してきました。あまり、前情報がなかった彼女は割と衝撃を受けていましたが、「USJに行くより、ずっと良かった」って言うとこ、さすが。笑

三連休ってのと、日曜の大阪マラソン大会ってのとで、宿がまったくとれず、二夜連続でネカフェなど探してさまよったのですが、常にご機嫌でにこにこしてて、たぶん、人の形をした仏なんだと思います。なむなむ。以上、大阪旅行記完

永遠の愛と結婚の関係

愛があるか、ないか問われるとき、「あると信じるからある」と答えています。

永遠の愛があるか、ないか問われるとき「結婚するからある」と考えています。

 

まずは、「愛」について考えてみましょう。

愛や友情は、国家だったり資本主義のように、実体はないけれど、存在はする類のものだと仮定します。

 

確かに、人が強い感情を抱くとき、脳内で放出されるホルモン(=物質)はあるらしいですが、それはあくまで、「愛」に関する現象の一つに過ぎない。つまり、「愛があるから、あるホルモンが放出される」という言説はすんなり通るように思うけど、「そのホルモンが放出されているから愛がある」とは、どうもちょっと受け入れがたい。

そもそも、「強い感情」と書いたように、人が誰かに対して愛情を抱くときに放出されるホルモンは、我々が「愛情」とは区別する感情、感動だとか、美味しいものを食べたときの幸福感だとか、をもったときにも放出されます。

 

りんごのように、触ったり、しげしげと眺めることはできないけれど、私たちは、それが確固として存在する前提で生活している。そして、その「信念」に従って、社会の制度だったり色々なシステムを作り出す。それが、愛だったり、国家だったり、資本主義だったりするものの実体ではないでしょうか。

 

ただ、こうも考えられるかもしれない。「システムや制度があるからこそ、それ(愛云々)が存在する」と。ロマンティックラブイデオロギーや近代国家の成立の過程に関して構築主義的に論じる本はたくさんあるので、スキップしますが、世の中がここまでカップルにフォーカスしない社会だったら、そこまで、愛が重要視されることもないのではないか。

 

世の中のカップルのためのイベントが今の五分の一くらいになって、ドラマも映画も音楽も恋愛以外を主題としたものの割合が五十倍になって、結婚って制度もなくて、って社会だったら、たぶん、愛って、犬を飼うのと同じくらいの行為になる気がしませんか。

 

ただ、別に私は、だからといって、「愛はまやかしだ」という気もなくて。確かに、「自由恋愛」を人々が「謳歌」しだしたのはここ最近です。しかし、冒頭にも述べたように、現代社会に生きる我々にとっては、まぎれもなく「存在」するもの。

 

 

ここまでが愛に関するお話。次は、「永遠の愛」に関して考えていきます。

まずは永遠の愛を「今、愛している人を、自分が死ぬまで愛し続けるという、現時点での意思表明」または「現在の二人の関係を、未来にまで延長して考える態度」とします。

 

ここで大事なのは、「(過去、)現在、未来は連続している」という時間の捉え方です。時間の連続性、または、人々が「時間」という概念を取り込んでいく過程に関して、特に、哲学や文化人類学の分野で論じられてるので、割愛しますが、ここで言いたいのは、「その時間の捉え方自体が相対化可能である(色々なものの見方があるうちの一つに過ぎない)」ということです。

今回は、時間を直線的なものとして、現在、過去、未来は分けられつつもある程度、連続したものとして考えます。(一般的に浸透していると思われる考え方だから)

 

さて、次の段階として、「決定された未来はあるか」ということを考えましょう。これも「あると信じるから、ある」と言いたいところですが、そうもいきません。なぜかというと、それは、「未来」の言葉が含む不確実性と衝突するからです。我々は、「不確実な、先の時間」を未来と呼ぶのであって、「ある程度確実性の高い、先の時間」は現在に含めます。厳密にいえば、「現在」というのは(時間を直線として考えれば)「点」なので、実体はありませんが、日常では、ある程度、過去と未来に時間の幅をとって、現在としています。

例えば、「学校に行く」明日のことを「未来」と呼ぶのは違和感がありませんか。もっと分かりやすいのは、英語で、たとえ、先の時間に起こることであっても、 Earth rotates. と言い、Earth will rotate.とは言わないと、受験勉強で習いました。

 

ここまで、時間に関して考えてきました。「永遠の愛」に話を戻しましょう。

永遠の愛は、「現時点での愛を、未来にまで延長したもの」と述べましたが、先ほどの議論からもわかるように、それは、ありえません。「不可能」ではなく、ありえないものなのです。ちょっと難しく色々書きましたが、巷でよく言われるように「未来は分からないものだから」です。

しかし、宗教の多くが、未来での「救済」を約束するように、不確実な未来に見いだされる(と思われる)確実性に人々は惹かれるようです。宗教心を否定できないように、「永遠の愛」を信じる心も否定されるものではないと、私は思っています。そして、「永遠の愛」を現実に可能にするものがあるとしたら、それが、結婚だと考えます。

 

愛に関する話のなかで、「制度やシステムがあるからこそ、ある概念は、実在する」と述べましたが、結婚制度が、一組のカップルの関係を、基本的に、どっちかが死ぬまで規定するために、「永遠の愛」は存在しうるのではないでしょうか。

(ここでは、ひとまず、「人が死ぬまで」を「永遠」とします。これは、「世界」といったときに、普通、人は銀河系の外のことは考えず、だいたい、地球上を想定するのと同じ感覚です)

つまり、先ほど「ありえない」と書いたものを、法律という、途方もなく大きいと思われる権力によって無理やり「後押し」(/ゴリ押し)してもらっているのが「永遠の愛」なのです。本来は、「先の時間に関する現時点でのほぼ絶対に破れない約束」=「確実なもの」なので、結婚は、「現在」を先の時間に、ものすごく引き伸ばしたものにすぎないのですが、いかんせん、死ぬまで先の時間を「現在」として捉えることに人々は慣れていないから、結婚という超個人的な法律、国家、社会の「力」によって、「永遠の愛」が存在すると信じてしまう。そして、「永遠の愛」以外に、「不確実な未来」に見いだされる「確実」なものは、なかなか存在しないので、人々はそれに熱狂する。

 

永遠の愛は、結婚による、未来に対しての現在の侵犯なのです。

 

 

最後に、ここまでの、端々に溢れる言葉のニュアンスから、私の「愛」だとかなんとかに対するスタンスが滲みでていますが(笑)途中でさらっと書いたように、思想、信条、宗教の自由が(一応)保証されているのが現代社会です。

なので、どんな反論もあり得ると思いますが、注意してほしいのは、私はここで「愛情は、本当にずっと続くのか」という問いは問題にしていないってことです。そんなん、続く人もいれば、続かない人もいる、としか言えませんから。笑

もうね、大学生、それに関してばっか喋りすぎなんだよ。どうでもいいわ。それよりも、もっと面白いゴシップを提供してちょうだい。笑

 

では、セックスワークに関する議論と一緒に、ここ最近ずっと考えていたことのまとめは、以上です。

セックスワーク(売買春)をどう捉えるかってことを最近ずっと考えています。

毎日なにをしているかというと、12月1日締め切りで、セックスワークに関する研究レポートか、書評を書くために色々と読んでいます。

といっても、青山薫『セックスワーカーとは誰か――移住・性労働・人身取引の構造と経験』(2007)とSWASH(Sexual Work And Sexual Health)『セックスワーク・スタディ-ズ』(2018)を読み終えたところですが。

 

うーん、、、あと一か月ちょっとで研究レポートって無理じゃね。笑

けど、学年一つ上の4年生の卒論の進捗を見てるといける気もする(失礼w)

 

というか、元々、青山さんの著作の書評を書くつもりだったのですが、少し古すぎるので、先月発売のSWASHに切り替えようと思ったんですね。しかし、思ったよりもfor beginnersで、学術書ではない…。内容はかなり充実していて、包括的な知識を得るにはもってこいなのですが。

 

そこで、「研究レポート(論文にまではならないけどってやつ)にしたら?」とアドバイスをいただき……いやいや、無理だろ。研究レポートとはいえ、デュルケムやウェーバー、パーソンズといった社会学の古典一通り読んで、フェミニズムも理解して、ってあとに書くのが筋ってもんですよね。本当は原典もあたりたいけど(多分ムリ笑)

我ながら、学問への冒涜。

 

しかし、自分から、「なにか書けそうなものないですかね」と聞いた手前、引けぬ。。。いや、そもそもそれも、来年のつもりで話したのですが…。しかし、本当にやるかどうか試されてる気もするし、こういうの繰り返してるうちに成長するもんだから、全力出します。(いつぶりだ、この言葉使うの笑)

全力もね、時々出してあげないと、忘れちゃいますからね。

 

今は、青山さんの著作後、欧米の論文の紹介を中心にセックスワークの議論がどうなっているか(できれば、トランスナショナルな視点も含めつつ)まとめる形で研究レポートを書こうかなと思っています。。。できるんかいな。笑

やるしかない。

 

 

さて、多分、ここまでは、誰も興味のない話だったと思うのですが、肝心の議論に関することもかるーく書きますね。

 

セックスワーク/売買春をどう捉えるかっていうのは、フェミニストの間でも意見が割れておりまして。

 

まずは、「貧困と、女性の性が搾取される社会構造のもとにあるのが売買春なのだから、許されるべきではない」という立場。売春をしている女性たちを被害者として保護し、(売)買春を不法化することを目指します。

 

次は、「夫婦間以外のセックスをタブー視する姿勢こそ問われるべき。セックスワーカーは、その人たちの性の自己決定権を行使して労働をしているだけであり、一方的に被害者として扱うことは、その尊厳を貶める」という立場。

 

そして最後に、「『強制された』売春と『自発的な』セックスワークを分けることは不可能/無意味。それよりも、現実に、セックスワークに従事している人たち本人の意思を尊重し、その人たちの人権や労働者としての権利を守るよう、セックスワークを非犯罪化するべきだ」という、ある意味、中立的な立場があります。

(青山さんは、さらに、「社会から影響を受けつつ、かつ、社会に影響を与えうる」エイジェンシー/発為力の概念を用いて、実際のセックスワーカーたちからの聞き取りを分析します)

 

まあ、ぶっちゃけ、「今」のフェミニストはほぼ皆、最後の立場という印象を受けますが、議論を追いつつ、もう少し自分なりに色々考えたいと思っています。

 

エイジェンシー概念を中心とした相互行為論を踏まえて、他の聞き取り調査の再分析をしてもいいかなとも思ってますが…。どうなることやら。

 

ま、とりあえずは、田崎英明『売る身体・買う身体―セックスワーク論の射程』と江原由美子『性の商品化―フェミニズムの主張』を読んで、英語文献をもりもり食べていこうかと。

 

がんばります。

まちゅぴちゅ。

お久しぶりです。

ふと思い立って南米へ行ってきました。南米てか、マチュピチュへ。

 

世界に遺跡は数あれど、歴史学者の心をつかんで離さないマチュピチュの謎、それは

1、いつ、なぜ作られたのか定かでない。

2、なぜ滅びたのかも定かでない。

3、鉄製道具も、車輪も、運搬用の家畜も使わずに、あの山奥、かつ高地にどう作ったのか。

 

日々進化するテクノロジーに揉まれる毎日なので、古代のテクノロジーに思いをはせたくなったのです。。。

(てか正直に話すと、ストレスたまりすぎて、地球の裏側に逃避したかった笑)

 

写真は、インスタで公開してるので、この記事では自分の備忘録兼、これから行く人々へのtipsになれば。行程の簡潔なメモにとどめます。質問があれば、コメント欄へ。

 

Narita to Mexico 飛行機 往復約$1300

空港泊約5時間

Mexico to Cusco 飛行機 往復$500

 

Cusco 二泊ホステル $50

安いとこだと一泊$10もありましたが、お湯の出が悪いということなので、少しプラスしてみました。お湯の出は悪かったです。かしこ。

 

Cusco to Ollyantytambo

ホステルの人が手配してくれたプライベートカー 往復$200

タクシーメーターが無いので、乗車前に交渉制です。そのあとに他の旅人の話を聞いたら、私より全然高い人(往復で$300)がざらにいたので、これくらいだと思います。ホステルの人が手配してくれたとこだし。

 

Ollyantytambo to Machupichu

Perurail 往復$130

なんか、他のほぼ全ての(主に欧米からの)旅行客たちが列車のなかで、隣り合った知らん人たちと、交流してて軽くビビりました。必要なのは英語の上手さではなくて、ガッツです。

 

Machupichu 一泊ホステル$20

お湯の出が(略)

 

帰りは、これの逆!

 

って感じです!本当は、もっともっともっと南米旅行したかったのですが、日程的に無理でした。ま、今度、ニューヨークに行く予定だから、そのときに思い切って一か月くらいぷらぷらしてくるかな。クスコもよかったな。

 

あと、大切なtipsは、高山病の予防薬を、日本で処方してもらって、事前に飲むことです!向こうで会った旅人みな、高山病で苦しんでいましたが、この薬のおかげで私は大丈夫でした。

 

ってことで。次の更新は、TRPかな~。Have a good day!

私のクレカなら何枚でも取ってくれ。なんなら、他の観光客のも一枚くらいとっちまえ。

さらっと書いたのですが、帰国3日とか4日前にクレカを盗まれたんですよ。

 

ATMでお金を降ろしたところから多分、つけられていたんでしょうね。

ホステルに直帰する予定のところを、あまりにも天気が良くて、少し汗ばみつつも、初夏の風はまださわやかで、駅前の広場が賑やかで、このわくわくをもっと味わいたくて、一服するためにたばこ屋に寄ったんですよ。

 

鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気だったのが良くなかったんだと思います。けど、鼻歌が出そうになるほどの上機嫌を抑えてまで、守るものってなにがあるのでしょうか。

 

まあ、直接の原因は、ポッケに降ろしたての現金(約3000円)とクレカをそのままつっこんでたからだと思います。

 

とにかく、その狭いたばこ屋を出ようとした瞬間、後ろのお客さん(風の人間)と、たまたま同じタイミングで店に入ろうと(見せかけた)人間に完全に挟まれたんですよ。もう、綺麗にサンドイッチ。私はハム。レタスかしら。やっぱ、もう少し味気のあるもののほうがいいわ。もはや、アボカドとか?

 

で、その一瞬に考えたことは、「なんだこいつら、人間社会で生きたことあるのか、道ぐらい譲れよ。譲り合い、おもてなし、大和撫子の精神、Japan cultureで殴り倒したろか」

と、支離滅裂なことが脳裏をよぎっている瞬間に、見事に、あるべきものがあるべきはずの場所から消えていました。

 

その3秒クラッシュ(精神的なものではない)から抜け出して9秒後くらいに、すぐに気づいたので、カード会社に連絡して不正利用もなく、事なきを得ました。反対側のぽっけに入れてたiPhoneが無事だったのが一番の幸い。

 

そのあとは、両親へ謝罪と反省のメール。詳細は省きますが、色々と面倒をかけてしまったので。そしたら、責める言葉を全く言われず、まあ、言われないだろうとは思ったけれど、改めてありがたい。

 

と、ここまで述べたように、実質的な被害がなかったからこそ言えることとは重々承知のうえで書きますが、

 

観光客がぼったくられるのって当たり前じゃない?いや、むしろ、観光客って、この地球上において、一番、お金をむしりとられてしかるべき存在じゃない?

 

だってさ、いくら海外旅行が身近になったとはいえ、そんな、旅行できるのなんて、ただの金持ちでしょ?バックパッカーだろうがなんだろうが、その航空券は、決して1000円ではないわけで。

金持ちはさ、金を地球に落とせよ。それが存在意義。that' it. 終わり。それ以上でもそれ以下でもない。

 

残念ながら、資本主義がはびこってしまった2018年現在なので。お金以外の価値を追い求めたいけれど、金持ちはまず、金を落とせ。話はそれからだ。金落とすって投資ちゃうぞ。無駄な出費こそ、最大の世界貢献ですからね。あなたに還元しちゃ意味ないから。

 

大学生がさ、長期休暇にちょろっと東南アジアでボランティアして、就活のネタにするくらいならさ、同じ金ではっぱでも買って、らりっちゃって、意味が分からなくなるほど楽しくなっちゃって、向こうの、悪党だけど、別に人が悪いわけではないやつらに、身ぐるみ全部剥がされちゃえよ。それこそ、責任も脳みそもない我々が、今しかできないことでしょ?

 

立派なことは、年取った人に譲ってやろうぜ。叱る役目、あげようぜ。

 

って、こんなこと口走ろうものなら、多分、母親に「はああああ~~!?」って叱られるから言わないけど。

 

しかも、先ほども書きましたが、実質私、3000円しか被害がないので。そりゃあ、盗人たちを、リスクの割に3人(もしかしたら4人かも)で割った後の取り分が少なすぎて、可哀想に思える余裕ももてるってもんですよね。ちょっと美味いランチでも食ってくれ。

あと、ゆーて、クレカを使い倒してたのは、不正利用されたときの保証があるからで。しかも、海外旅行保険も入っているので。

 

トラブルがあったときにサポートしてくれる人もいる。

 

甘ちゃんなんです。彼女にも指摘されましたが。結局は。だからこそ言えること。

 

けどね!!だからのだからこそ、せめて、自分より経済的状況が悪い人たちの行動になにか言いたくはないのです。むしろ、合法的な方法で、見えない形で、搾取している側こそ悪質じゃない?つまり、われわれ、少なくとも私です。

 

どうすればええねん、悪者なんて嫌だよふええんとかね、無理!こうやって生まれついた時点で、罪を背負ってますから。罪悪感を和らげたいなら、紙(神)でもほーほけきょ(仏)にでも頼ってくれ。

 

それか「空飛ぶじゃがいも教」にお布施を。

ロシアに落としてくるので。

 

だから、せめて、自分よりましな悪党の生活を助けたくらいでガタガタ言わない。

 

しかもね、株や事業の失敗で破産はあるけど、海外旅行で破産はないから。

 

よろしくぴ。